「人口重心は、なぜ、そんな東にずれていたのか」

 この謎を解いてみましょう。ここで、当時の人口事情を見てみると、まず列島全体の人口は、早期の2万人から、温暖化が進んだ中期(約4300年前)にピークの26万人にまで増えていきます。

【縄文時代の人口と人口密度】

(出典:「縄文時代」小山修三著(中公新書))

この図を見ると、東日本に比べて、西日本の人口が極端に少ないことに気づきます。縄文のピーク時人口26万人のうち、西日本の人口は合計してもたったの1万人ほどにしかなりません。
 これは、主に東西の植生の違いによる人口支持力の大小からくるものです。

“待て待て待て!黙って聞いとったら…”

 また、きましたね。

“当り前やろ。いくら何でも、西日本には奈良に京都、大阪もあるやないか。1万人で都をつくれるわけないやろ。よう考えてからもの言え!!”

難波さん、確か大阪のご出身でしたね。なるほど確かに、「畿内」は政治経済の中心地になっていきます。そのお気持ちはわかりますが、状況が変わるまでには、まだしばらくの時間を要します。ここは、ちょっと抑えていただいて……。

さて、当時は狩猟採集の社会。この時代の人々は実に多くの種類の食物を摂っていますが、その中でも主食とも言うべき木の実の収穫量に人口は左右されました。その代表格は「クリ」ですが、この収穫量に東西で大きな差があったのです。
 縄文時代の温暖期には気温が3度も上がります。東日本ではブナを中心とした冷温帯落葉樹林が後退してクリなどの暖温帯落葉樹林が広がったのに対して、西日本ではシイなどの常緑照葉樹林が広がっていたんです。